陰キャが人間生活に馴染めないという気持ちを熱弁する
俺は人間が嫌いだ。
意思を持った、人間を襲うフランケンシュタインみたいな口調で断言するのには理由がある。
それは最近の人間は“流れ”で生きている気がするからだ。
高校生になったら…→青春、イキリ、セックス。
大学生になったら…→金髪、ピアス、セックス。
社会人になったら…→清潔感ある服装、スーツ、セックス。
何なんだ?お前らはそれしか脳がないのか?
セックスセックスセックス……。猿か?
な?冷静に考えたら、高校生になったら焦燥感感じたろ?やべぇ彼女いねぇとか、童貞だわーとか。
いいか?もっと広い視野をもて。そいつらは人生をセックスと勘違いしている。
人間はこれまでにジョジョみたいに自分の分身を作っては物語を作ってきた有機物なんだよ。
問題はセックスをするとかイキるとかじゃないんだ。
かわいいピチピチの娘とセックスするのは個人的にとって価値があるかも知れないが、世界でみろ世界で。
毎晩何億もの棒と穴が摩擦を起こしてる。
今スマホを眺めてる間にイギリスでは乱交パーティをしてるかもしれない。
お前の好きな女優が手越とヤッてるかもしれない。
そうしたらこの言葉を思い出せ。そいつらは“流れ”にのるだけのちっぽけな人間だと。
さっき例に挙げたことだけじゃない。
他にも、「You Tube見れるようになった!!取り敢えずヒカキン見よう。」とか、5ちゃんねる始めたぜ!!草←(この“草”という言葉自体も“流れ”に含まれる。)とか、(私ってオタクな気がする…)だからキメツ観よう!!とか人間だからボランティアしよう。とかといった〇〇だから〇〇、または取り敢えず〇〇というのは本当に苛立たしいことだ。
この考えから言うと“相田みつを”の“人間だもの”は人間に“流れ”に乗ることを助長している。私はいわば“相田みつを”アンチだ。
しかもこの“流れ”に怖いのは知らず知らずの内に入ってしまってるということだ。ここまで嫌悪する私でさえたまに入りかける。特に注意すべきは“流れ”=自身に対する思い込み、でもあるということだ。ex)カープ女子が好きでもないカープの選手をググりだす→私は真のカープ女子だから…という気持ちが働いている。
ちなみに言うと、塾に通い出した奴が「俺、今日塾」と言うのも含まれる。
以上でなんとなくだが私が言いたいことが分かったかもしれない。
じゃあ何が正しいか。
それは流れに抗うことだ。
ここで一つ逸話を。
ある男がいた。
その男は青春という言葉が嫌いだったし、青春してるやつも嫌いだった。そいつはクラス写真は、確実に口を開けて外を眺めながら写るし、クラスマッチで勝ってワチャワチャしてる輪の中には入らず、傍観している。
そいつは修学旅行のUSJで入り口の対角にあるフライングダイナソーに一番乗りしようということでバスから降りてすぐに走り去った。残ったクラスメイトはそいつ抜きで集合写真を撮った。
一見、悲しい人間の末路に見えるが、写真撮影をすることは気づいていた。
帰りのバスのクラスラインに流れた写真には俺の姿は無かった。
つまり俺はUSJの地球儀の前で興奮してる奴らが写真を撮ってる間にフライングダイナソーをしていたという訳だ。
これが青春に抗うということだ。
ただ、最近、歳に抗うじじいばばあ共が増えてきた。
受験期真っ盛りの俺(現在)はとある勉強施設によく出入りしているのだが、そこは公共施設で老人の溜まり場でもある、老人共はその溜まり場内での仲間内をA(仮名)大学と呼び、学生のようにワチャワチャしている。それも、勉強してる奴らの真横で。
キモい。
何なんだコイツ等は。
確かに抗ってる。歳に抗ってることは確かだ。
大体の年代は:バブル全盛期の、通称バブルばばあ。そして団塊の世代の、通称:団塊じじい。これらで構成されている。
コイツ等は衰えを知らない。というかは精神年齢が低い。
正直、健康を大事にして健康のために運動したり、笑ったり、なんかの文化的な活動をする、じじばばはキモい。
どんな奴らかというと、青汁の通販とかでよく見る健康を自慢してくるニコニコして、イキイキしてるばばあがよく似ている。
俺は人間が作り出したジャンルにおける“流れ”に抗うのはアリだが、健康に抗うのはナンセンスだと思う。何様なんだって話だが笑。
正直、50過ぎたら布団で寝込んどけ、ともぞ思う。
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